『悪霊』より

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「実を言うとね、あのいまいましい女の腐ったような男とは、ぽくは親友でもなんでもなかったんだよ」怒りに身をふるわせながら、やはりその晩、ステパン氏は私に愚痴りつづけた。「ぼくはまだ少年だったころから、あの男を憎みはじめていてね……むろん、向うもぼくに対して同じ気持でね……」
 ユリヤ夫人のサロンはたちまち人でいっぱいになった。ワルワーラ夫人はとくに気がたかぶっていて、平静をよそおうとつとめてはいたものの、二、三度、カルマジーノフには憎々しげな、ステパン氏には怒りに充ちた視線を投げたのを私は見のがさなかった。これは先を見越した怒り、嫉妬と愛情から出た怒りと言えよう。もしステパン氏があの席で何か間の抜けたことを言い、一同の面前でカルマジーノフに一本取られるようなことがあったら、彼女はとたんに躍りあがって、彼をなぐりつけかかねまじい様子にさえ思われた。一つ言い落したが、この席にはリーザもいて、彼女がこれほどうれしそうに、なんの屈託もなく浮きうきと幸福そうにしているのを、私はついぞ見たことがなかった。もちろん、マヴリーキーもいっしょだった。それから、ユリヤ夫人の定連の取巻きを勤めている若い婦人連やいくぶん不良じみた青年たちの間に、____この仲間ではその不良じみたところが快活さと、安っぽいシニスムが才知とされているのだが、____私は二、三の新顔を見いだした。どこかよそから来た、ひどく落ちつきのないポーランド人と、ひっきりなしに自分でウィットをとばしては、大声でそのウィットに笑い興じている矍鑠たるドイツ人の老医師と、もう一人は、ペテルブルグから来たまだひどく年の若い公爵で、おそろしく高いカラーをつけ、さも国家的大人物でもあるかのように取り澄ました、自動人形さながらの男であった。しかし、見たところ、ユリヤ夫人はこの客をたいそう徳としていて、自分のサロンがどういう印象を与えるかを気にしてさえいるふうであった。
「シンアイナル・ムシュー・カルマジーノフ」ステパン氏は、絵に描いたようにゆったりとソファに腰を落ちつけると、急にカルマジーノフに劣らぬ舌たらずな物言いで口を切った。「シンアイナル・ムシュー・カルマジーノフ、われわれ旧時代に属し、ある信条をもちつづけた人間の生はですね、二十五年の空白をおいてもなお、単調なものに見えるに相違ありません…・‥」
 ドイツ人が、まるで馬のいななくように、おそろしく大きな声でからからと笑いだした。明らかに、ステパン氏が何かとびきり滑稽なことを言ったものと思ったらしい。こちらは、わざと驚いたような顔をよそおって、彼を見返したが、これはなんの効果ももたらさなかった。公爵も、例の高いカラーごとドイツ人のほうを振向いて、鼻眼鏡ごしに見やったが、その顔にはつゆほどの好奇の色も浮んでいなかった。
「……単調なものに見えるに相違ありません」ステパン氏は、一語一語をできるかぎり長く、傍若無人に引きのばしながら、わざとこうくり返した。「この四半世紀の私の生活もやはりそのようなものでした、ソレニ・イタルトコロ・道理ヨリ・坊主ノオオイガ・ヨノナライでして、私はまたこの諺にまったく同感なものですから、さようなわけで、この四半世紀の私の生活は……」
「ボウズダナンテ・ステキジャアリマセン」ユリヤ夫人が、すぐ横にすわっていたワルワーラ夫人のほうを向いて耳打ちした。
 ワルワーラ夫人は誇らしげな眼差しでこれに答えた。しかしカルマジーノフは、このフランス語の警句の成功を腹に据えかねたらしく、早口のきんきん声でステパン氏をさえぎった。
「私なんぞ、もうその点は不惑の心境でしてね、これでもう七年カルルスルーエに引きこもっております。現に去年、市議会が新しい水道敷設を決議したときも、私はこのカルルスルーエの水道問題のほうが、わが愛する祖国のあらゆる問題よりも、はるかに身近で大事なものだということを、心底から感じたような次第です……こちらのいわゆる改革時代の全期間を通じてですね」
「同感せざるをえませんな、私の心情にはそむくことですが」ステパン氏は、意味ありげに首をかしげながら、ほっと嘆息をもらした。
 ユリヤ夫人は得意満面だった。会話が深みのある、傾向を帯びたものになってきたからである。
「水道というのは下水道ですか?」医者が大声でたずねた。
上水道ですよ、ドクトル、上水道です。で私はそのとき設計書を書く手伝いまでしたものでした」
 医者はげらげらと高笑いをはじめた。それにつづいてかなりのものが、今度はもうあからさまに医者のことを笑いだしたが、医者のほうはそれに気づかず、みなが笑っていることにいたく満足の態であった。
「わたくしには賛成いたしかねますわ、カルマジーノフさん」ユリヤ夫人が急いで口を入れた。「カルルスルーエはそれとしましても、あなたは神秘めかすのがお好きですけれど、今度はわたくしたちもその手に乗りませんことよ。ロシア人のなかで、ロシアの作家のなかで、あれほど数多くの現代的タイプを捏示なさり、あれほど多くの現代的問題を見いだされ、現代の活動家のタイプを構成している主要な現代的特質を指し示されたのはどなたでしたでしょう〜 あなたですわ、あなたおひとりで、ほかのだれでもありませんわ。そうでいらっしやるのに、祖国に関心がないとか、カルルスーエの水道に非常な関心をそそられるとかおっしゃるつもりですの!ほ、ほ!!」
「そう、たしかに私は」とカルマジーノフが舌足らずな物言いをはじめた。「ポゴージェフのタイプにスラヴ派のあらゆる欠陥を、ニコジーモフのタイプには西欧派のあらゆる欠陥を提示しました……」
「あらゆるとおいでなすった」リャムシンが小声でつぶやいた。
「でもこれは片手間に、いわばなんとかしてあのうんざりするような暇をつぶすために、それから……例のうんざりするような同国人のさまざまな要求を満足させるためにやったにすぎんのですよ」
「ステパン・トロフィーモヴィチ、あなたもたぶんご存じでしょうけれど」とユリヤ夫人は有頂天になってつづけた。「あす、わたくしどもはすばらしい詩を聞かせていただけますのよ……セミョーン・エゴーロヴィチ(訳注カルマジーノフ)の優雅な文学的霊感にあふれた最近作のお一つで、『メルシィ』という題ですの。で、このお作のなかで、今後はもうお書きにならない、どんなことがあっても、たとえ天使が空から天降ってくるようなことがあっても、と言いますより、全上流社会が決心を変えるようお願いしてもお書きにならないということを宣言なさるんです。つまり、永久に筆を折られるので、この優雅な『メルシィ』は、これまで幾十年もの間この方が誠実なロシアの思想にたえず尽されてきて、一般読者がいつもそれを変らぬ歓喜で迎えてきたことに対して、感謝の意味で書かれましたの」
 ユリヤ夫人は幸福の絶頂に立っていた。
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Divagations ; "Arthur Rimbaud" Stéphane Mallarmé

aroma22006-01-12

Divagations ; "Arthur Rimbaud" Stéphane Mallarmé 


アルチュール・ランボー
   _______________ハリスン・ロウドゥズへの手紙   マラルメ


昭和55年、文芸読本 ランボー (河出書房新車)78ページから84ページ、

アルチュール・ランボー
   _______________ハリスン・ロウドゥズへの手紙   マラルメ

 これは、新納みつる訳です。私自身この訳を何度も読んだのですが、ところどころ、どうしても意味不明な箇所があり、マラルメ全集Ⅱの渋沢孝輔訳も見ました。渋沢孝輔訳もすばらしいのですが、やはりところどころ、私の頭をさかさまにしてみても意味不明な細部、箇所がありました。翻訳によって重要な意味が隠されてしまったり、ぜんぜん文章からイメージがわかなかったりします。おそらく、マラルメの散文自体が紆余曲折した構成を持ち、関係代名詞というものがフランス語にもあるのかどうか詳しく知りませんが、語順に沿って無理に文法を通そうとする結果ではないかと思われます。がんばればマラルメの原文を手に入れることは絶対不可能ではないのでしょうが、さて、手に入れたところで、私はフランス語を習ったこともなく、訳す気力もわかないことでしょう。新納みつる訳は若干の細部を変えて1971年ユリイカの VOL3・5 「総特集 ランボオ 臨時増刊」 (青土社) 46ページにも掲載されております。さらにまた、小林秀雄 「ランボオⅢ」にも、数箇所が著者によって独自に翻訳されて引用されております。そこで、これら3つの書を参考に、無理にも意味を通させようと勝手な推敲、校正を企てて、掲載してみましたので、興味のある方はどうぞ。( )内に参考となる文献、引用、説明を入れました..........。マラルメによる原注()はアビシニアの政治情勢に関する部分と、「英雄的なヴェルレーヌ」の部分のみです。随時校正、改変の予定。



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 『 アルチュール・ランボオ 』     

 

     _____ ハリスン・ロウディス氏への手紙    《ディヴァガシオン収録》



        アメリカの雑誌「チャップ・ブック」の
        編集長ハリソン・ローズからの急な依頼
        で書かれ、1896年5月15日号に掲載された。



 

 ときおり開かれるあの火曜会の一夜、貴方が私の家でわが友人たちの語らいに耳をお傾け下さった折に、不意に、アルチュール・ランボオの名前が、何本かの煙草の煙につれてゆらりとゆらめき出たというようなことがあったのかもしれない。そして、そのとき、何か茫漠とした面貌が一座の席に付け加わったかのようであったのかも。そのことがあなたの好奇心を惹き、その名が貴方の中に留まったのかと想像いたします。
 貴方はお尋ねになってらっしゃる。それはどんな人物なのか、.............。それにしてもその人は、『地獄の一季節』、『イリュミナシオン』、そして最近まとめて出版された『全詩集』(ヴァニエ版)といった本によって、誰かその名を仄めかす者があると、人々は謎をかけられた様に黙り込み、物思いに沈み、恰も、多くの沈黙や夢や中途半端な賛嘆の念を、一時に押し付けられる様な有様であった、........それほどに特別な影響を、近頃の詩や詩人たちに与えているのではないか?と。
 親愛なる客人よ、その名の人のために楽弓を挙げた当人たる偉大なる我らが同士、ヴェルレーヌを、おそらくは奇しき例外として、今日、主要な革命的詩人たちのうち誰か一人でも、また何程かの深さにおいて、或は直裁に、その人アルチュール・ランボオの影響を受けたなどとはお思いにならないで下さい。そしてまた、詩に許された自由というものも、更に言えば、奇蹟によって迸り出たとも見える自由な詩も、その自己証明のためにこの人物を引き合いに出すことはできまいとおもわれるのです。ここ数十年の一切の詩の片言と別れて、或いは、まさしく片言が途絶えた時に、彼は古代の戯れの厳密な観察者であったのです。彼が、精神上のエキゾチックとでも言うより他はない様な情熱の豪奢な無秩序を提げて、パルナシアン(高踏派)以前の、ロマン派以前の、いや、極めてクラシックな世界に対抗して生み出したその魔法の様な効果をとくとご鑑賞になり、その深さをお測りになってみてください。ただただ彼が現存するという動機によってのみ点火された流星の光輝であり、独りで現れて、消えてゆく人。凡そそういうものはすべて、確かに其処にどんな文学的環境の準備があったわけでもなかったのですから、この途轍もない通行者がいなくても、以前から間違いなく存在していたことでしょう。個人的な状況が、力ずくで居座っているのです。


 この途方もない人物についての私の思い出を、というよりは、多くは私の考えを、打ちとけたお喋りのように、貴方のために物語るといたしましょう。


 私はその人とは識り合いではありませんでしたが、一度だけ見かけたことがあるのです。戦後(普仏戦争のことをさす)ただちに出来た文学者たちの食事の会のひとつ_______ディネー・デ・ヴィラン・ボンゾム「醜いが気のよい男たちの晩餐会」(マラルメの書類の中からは、1872年6月1日土曜日のこの会への招待状が見つかっている。この夜であろう)での席上のことですが。ヴェルレーヌがこの会食者に捧げている肖像(これはファンタン・ラトゥール「食卓の一隅」のことを指す)に鑑みれば、この命名はまさに反語でしょう。
 「その男は背が高く、がっしりとして、運動選手といってもよいくらいだった。完全に卵型の流竄の天使の顔立ち、櫛を入れないもじゃもじゃの明るい栗色の乱髪、眼は人を不安にさせる淡いブルーで穏やかならぬ光があった。」(.....ヴェルレーヌ「呪われた詩人達」からの引用)さらに思い上がってというか、なんというかわけのわからないものに駆り立てられた育ちの悪い娘の口調をもって意地悪く付け加えるならば、その人は洗濯女のようでした。暑さから冷たさへの移り変わりの時期に由来する、霜焼けで真っ赤になる大きな手のせいです。(ヴェルレーヌ前夫人マチルドは、71年秋のランボオの初印象を骨格の大きい少年と語っている。『......それは、赤ら顔の、大柄でがっしりした、百姓のような少年でした。成長が早すぎた、若い中学生といった様子でした。ズボンが短くなってしまって、母親が手ずから編み上げた、青い綿の半靴下が、まる見えになっていましたから。髪の毛はくしゃくしゃ、ネクタイはよれよれで、いかにもだらしのない身なりでした。眼は青く、かなり美しく見えましたが、そこには何か陰険そうなところがありました。私たちはそれをなんとも甘いことに、内気とはにかみのせいと理解したのでした。....』)それが一人の青年のものであることを考えると、その手はもっと別の何か凄まじい職業を物語っているかのようでもありました。私は知ったのでした。その手が、公刊されてはいないが、美しい詩句を当時すでに書いていたことを。すねてふてくされたような、嘲笑的なひだに結ばれたその口は、一行をも朗読して聞かせてくれることはなかったのです。


  われ、非情の河より河を下りしが、
  船曳の綱のいざない、いつか覚えず。
  罵り騒ぐ蛮人は、やつらを的にと引っ捕へ、
  彩色(いろ)とりどりに立ち並ぶ、杭に赤裸に釘付けぬ。


という詩句も、そして


  小児等の齧りつく酸き林檎の果よりなほ甘く、
  緑の海水は樅材の船板に滲み透り、
  洗いしものは安酒の汚点、反吐の汚点。
  舵は流れぬ、錨も失せぬ。


そしてまた、



  まばゆきばかり雪の降り、夜空の色は緑さし、
  海を離れてゆらゆらと、昇る接吻も眼のあたり。
  未聞の生気はただよひて、歌ふが如き燐光の
  青色に黄色に眼醒むるを、われはまた夢みたり。


そして、


  また、或る時は殉教者、地極に地帯に飽き果てゝ、
  海啜り泣く声きけば、僅か慰む千鳥足。
  黄の吸玉ある影の花、海わが方にかざす時、
  われは、膝つく女の如く動かざりき。


それから、


  見ずや、天体の群島を、
  島嶼、その錯乱の天を、渡海者に開放てるを。
  そも、この底無しの夜を、汝れは眠りて流れしか。
  あゝ、金色の鳥の幾百万、当来の生気はいづこにありや。



 そして、この傑作には天才の目覚めが原始的な姿で伸びをしているのですから全体の展開を見なければならないでしょうが、その全体がこの新人のうちで口をつぐんでいたのです!つまり、『Le bateau ivre(酔いどれ船)』は、すでに、あのとき、作られていたのでした。わずかの間に人々の記憶にたたきこまれ、人が詩句を口ずさみつづける限り、人の口から湧き出でつづけるであろうものすべてが、口をつぐんでいたのです。同じころか、あるいは、邪まにしてすばらしい思春期のころの作品、「椅子にすわった連中」、「虱をさがす女たち」、「最初の聖体拝受」、と同様に。世俗の悪癖である詮索好きな好奇心は免れているわれわれの交際仲間が、ややこの青年への注意を怠っているうちに、この青年に関して、1872年に行われた、当時17歳の彼の第四回目の旅行のことが噂となりました。このときも、それ以前の旅行と同じく徒歩で行われたもののようです。それらのうちの一度などは、彼の生誕の地アルデンヌ県のシャルルヴィル市からパリに向かったのですが、高等中学生だった彼が修辞学級での賞品すべてを売り払ったお金で、まずは豪勢にとりおこなわれたものなのですが。しかし、その都度呼び戻されては、そこで、家族、つまり退役将校の父とは別居中である田舎出の母親と仲間たち、クロス兄弟やフォラン、のちにはヴェルレーヌとの間に、行ったり来たりが繰り返されました。出かける時には運河を往く石炭船の上で寝る危険を冒し、戻るときは、コミューンの兵士たちや戦闘員らの前哨戦に引っかかったり。窮地に陥るとこの大きな小僧っこは、巧みに党の義勇兵になりすまして、自分のための義捐金を募る慈善運動を煽ったりしました。その後にも何やかやの雑多な小事件..............、それらは要するに最悪の混乱、すなわち文学によって暴力的に害された者に特有のものなのです。それからベンチの上や図書館で勤勉な時間をゆっくりと過ごした後、今度は早熟にして強烈な、確固たる表現の持ち主となり、それが彼を未聞の主題へと駆り立ててゆきました_______すぐさま、「未知の」と彼の強調する「新しい感覚」の探求を彼は主張し、しかも彼はそれを俗な、都市の幻想安売り市場あたりで掘り出せると得意になって自慢していました。そこは、俗ではあっても、この青春の悪魔に、或る夜、何らかの壮大にして人工的なヴィジョンをゆずり渡し、その後は、単に酒に酔うだけでもヴィジョンは見続けることができるというのでした。



 安手の逸話には事欠きません。途中で断ち切られた生活の糸が新聞、刊行物の類の上に逸話として散らばり落ちました。それらのこまごまとした話を、多くの人々を介してやっとこさ百人目くらいにその話を聞いた人間みたいに、いまさらちらつかせてみたところで何になりましょうか。ガラス玉にわざわざ糸を通し、黒人の酋長の首飾りを造るようなもので、時間の無駄でしょう。_______実際、後には、何処か未知、未開人種になっている詩人を絵に描くというような冗談も生まれたのです。(ドラエイ等がランボオをホッテントットと呼んでふざけた)貴方はそれらを私がどのように受け取るかをご覧になりたいのだと思います。ひとつの意味深い運命のあらすじをたどってみて、そこに最大限の真実らしさを注ぎ込むことになればとお望みなのでしょう。運命は、外見的にはそのわき道と見えるところにも一人の歌びとのものであるリズムとある不思議な単一性をとどめているに違いありません。しかし、それはそれとして、親愛なる友よ、御質問のおかげで、私自身にとってはじめて、この貴方の心を魅し惹きつける人物をその全体像として喚起してみることができたことを感謝申し上げて、話の筋から逸れますが、ひとつの笑い話を思い出してみたいのです。それは、テオドール・ド・バンヴィルがにこやかに、例の魅惑的な語り方で、私に語ってくれたもので、この巨匠が善意の救いの手を差し伸べたという話です。ランボオが彼に会いにやってきました。私たちの仲間の一人の意向で。そして、偉大な作品が作れるようになりたいのですがと、なまりの多い言葉ではっきりと告げました。バンヴィルは意見を述べて、まずそのためには、才能というのは二の次で、住むべき部屋を持つことが第一であると語り、ビュシー街の自分の家の屋根裏部屋を貸しあたえたのです。それに机がひとつと付属品としてインク、ペンと紙、また、立ったままや椅子に座って夢を見るのではないときのために、清潔なベッドも。さすらいの若者がここに定住の地を得たのです。だがしかし、中庭が芳香によって各戸の夕餉をひとつに結ぶ時刻に、各階で挙げられる叫び声を耳にし、直ちにてっぺんの屋根窓の枠の中に裸の誰かの姿を認めたとき、この、方法的贈与主の仰天したこと、いかばかりだったでしょう。その男は気の狂ったように着物のぼろを振り回し、夕陽の最後の光とともに消え失せてしまえとばかりにそれを屋根瓦ごしに投げ捨てていた。彼が、この、とどのつまりは神話的な振る舞いを神かけて気遣うと、アルチュール・ランボオは答えたものでした。「ぼくはこんなに清潔で純白の部屋に、虱だらけの古着で出入りするわけにはいかないのです」。この抗弁によって、『追放者』の作者は、そこに確かに含まれている正しさを認め、おのれの側の不明を責めなければなりませんでした。この家主は、自分の衣類を着替え用に提供し、夜の食事に招待したのちはじめて、自分が正しいと判断しました。なぜなら「注目すべき詩を生み出したいのなら、住居のほかに、着るものが必要だし、めしもまた一刻もはやく喰わねばならぬ」から。




 パリの魅力も色褪せ、そこで、結婚生活への生来の不調和と、コミューヌ下のしがない官吏として、官憲の追跡の恐怖に悩まされていたヴェルレーヌと、そしてランボオとはロンドンを訪れることにはっきり心を決めました。ロンドンで二人は石炭の自由な煙のにおいを吸いながら、相互の泥酔による、酒と乱闘の悲惨な生活を送りました。まもなくフランスからの一通の手紙が逃亡者の一人に呼びかけて、その相棒を捨てるならば、罪を許すと言ってきました。若い妻は、面会の約束の場所で母と姑とにかこまれて和解の時を待っていました。私はベリション氏によって見事に描かれた話を本当のことだと思います。(「英雄的なヴェルレーヌ」パテルヌ・ベリション、ルヴュ・ブランシュ;1896年2月15日号)
 そこで私は彼に従って、世にも悲痛な喧嘩のことをここに書きます。その手のつけようのない不幸に陥った二人の詩人の、傷を受けた方も錯乱した方も、その悲劇の主人公とみなされるのであるがゆえにだからこそ世にも悲痛なのです。三人の婦人たちから声を合わせて懇願されて、ヴェルレーヌは友達をあきらめました。だが、ホテルの部屋の入り口で偶然にもその友を見かけ、思い切ってついてゆこうとしましたが、心冷えた相手は「二人の関係は永久に切れるべきだと断言」し、そんなことはするなと非難しました。ヴェルレーヌは聞き入れませんでした。_______ブリュッセルにいたのは単に帰国するための金を援助してもらうのが目当てだったが、「たとえ一文無しでも」「出発するつもりだ」とランボオは言いました。激しく拒絶する相手にヴェルレーヌは取り乱して、つれない人にピストルを発射し、その前で涙にかきくれました。続いていますぐお話しますが、この事態が内輪ですまないことはわかりきったことです。ランボオは施療病院から包帯をして帰ってきました。そして往来でなんとしても出発するのだと言いはって、もう一発の弾丸を受け、そこで事件は公けのものとなりました。彼にあんなにも貞節だった人は、モンスの監獄で二年間、その償いをしました。ランボオは孤独になり、決定的な危機にみまわれましたが、この悲劇的事件ののちの彼の心を読む何ものも残ってはいないと言っていいでしょう。この危機は、彼がいっさいの文学を、その仲間も書くことも止めてしまったがゆえに、まさに関心をそそるものなのですが。
 行動についてはわかっています。1875年に、何らかの目的を抱いて再びイギリスに行ったはずですが、こんなことは取るにたりません。それからドイツに渡って、教職と、彼固有の言語への熱狂をかなぐり捨てて収集した数ヶ国語の才能とを身につけ、ついで、鉄道でサン・ゴダールまで行き、アルプスを徒歩で越えてイタリーに到着。数ヶ月滞在。キュクラデス諸島まで足をのばし、日射病に倒れて、公式に本国送還となります。
 地中海東部沿岸の東方から渡って来る微風におのれの頬を軽くなぶられてから後のことです。




 この後に不思議な謎のような時期が来ます。尤も、次の事を認めるなら、謎であるのは当然といえるのだが。自分のせいでか、それとも夢そのものの咎でなのか、いずれにしても、夢を吐き出して生きる人間、生き乍ら、詩(ポエジイ)に手術されるこの人間には、以後、遠い処、非常に遠い処にしか、新しい状態をみつける事ができない事を。忘却は沙漠と海の広さを内包しています。かくて、熱帯地方への遁走、おそらくは、その景色のもの珍しさとか風景への興味などにはまったく無関心なうちになされた遁走。1876年のそれは、オランダ軍との契約でスマトラにゆく募集志願兵としてであり数週後には脱走して、このときには図太く人買いとなる前に、貰った契約金をはたいてイギリス船に乗りこみ、そこで小金を貯めたかと思うと、デンマークとスゥエーデンでそれを無くし、そこからまた本国送還となったのです。1879年には、キプロス島で大理石石切現場の監督となり、そのあとエジプトに向かい、アレキサンドリアへと至り、_______その余の日々はトレタン(奴隷売買業者)となっているのが見られるでしょう。欧州への、耐え難いその風土!、その習慣!、への決定的な訣別が現れるのは、アビシニア[軍事事件紛糾する昨今の舞台です](現在のエチオピア)の近くのハラルへの旅によってですが、そこでのこの追放者の全行動に関しては沙漠のような沈黙が広がっています。彼は、沿岸とその対岸のアデンで象牙、砂金、香料などの取り引きを行いました。______それにしても、かつてその手で本のページにそっと触れた人がそうであったように、再び、彼は、おとぎ話のように貴重な品々をこの上もなくうっとりとしてなでていたのでしょうか。______おそらくは、そうではない。『アラビアン・ナイト』の東洋趣味や地方色に汚れたような己れの安っぽい金ぴかの希少性に惹かれて心動かされていたのではなく、おそらく、広漠への、独立不羈への渇望をもって諸々の風景を飲み込み、そこに感動を覚えたのでありましょう。それでも、詩の天分が否認され詩なしですますようになると、すべてはどうでもよくなってしまうものだ。個人の内側に文明の最後の痕跡までもが消え去ろうとするとき、男らしくとか、野性的に生きるなどというヒロイックなことでさえ、無意味でどうでもよいことになってしまうものなのです。




 1891年に、思いがけないニュースが新聞に流されました。私たちにとってかつて詩人であり、今なお詩人であり続ける人が、旅行者として、財産を持ってマルセイユに上陸し、関節炎の手術を受けて、最近そこで亡くなったばかりなのでした。彼の柩はシャルルヴィルへの道に向かい、かつてあらゆる喧騒からの避難所であったこの街に、一人の妹の篤い信仰心によって迎え入れられました。




 なにももたらさない甲斐のない試みが、いとも容易に良心というものに取って替わるということがある、.....それは私にもわかっております。私の良心は機会があると、ひと気のないところで、声高にこの点に関して言い訳したのでした。というのも、他人の人生を表現するために、それを判りやすくもっともらしい断片に整理するなどということは全く無作法なことなのです!ところが、私は、ただもうこの手の犯罪に類する行為をとことんまで押し進めているのです。ひたすら調べを続けているのです。 _________ランボオの同郷で、高等中学校の仲間だったエルネスト・ドラエー氏の回想によると、1875年ごろ、ランボオが何度かの出発と帰省とを繰り返しているその移動の合い間に、一度会ったことがあり、ランボオの昔の目標についてそれとなく、ひかえめに、訊ねてみたそうです。わずかな言葉で。私の聞いているところだと「で、文学は?」といったぐあいにです。相手は聞こえない振りをしましたが、ついに、「いや、あんなものはもうやらない」と簡単に答えました。そこには、後悔の色も自負の調子もありませんでした。「ヴェルレーヌは?」と、その人について話したい気持ちに駆られて聞くと、何の返事もありませんでした。故意に避けたのでないとすれば、むしろ、極端な行動の記憶を不愉快に思ってのことだろうというドラエーの意見です。




 大衆には習い性の、かくされた宝とか、伝説の宝物の話を好む趣味に乗じる出版物のなかで、何人かの者が想像力を燃やして、いく篇かの詩が彼の蛮地で書かれて、未完のままになっているかもしれないという驚くべき物語りをつくりあげました。彼らのインスピレーションのなんという闊達、その口調のなんという無邪気なことか。あるとすればこうだったろうというふうに人々は未刊の詩集を夢見ているのです。もちろんそこには幾許かの道理もあるわけで、一人物のまわりに漂う可能性は、考え方の上では、何一つないがしろにしてはならないわけですから.........。たとえ真実さに欠けているとしても、可能性が完全に消え去り雲散霧散するまでのしばらくの間は、そこに伝説的な話がこうしてどこからともなく巻き起こるわけです。しかしながら私は、成熟期の作品があるかもしれないと考え続けることは、芸術の歴史における唯一無二の冒険の正確な解釈を損なうことになると考えます。冒険______余りにも若くして、早熟に、文学の翼に激越に打たれ、ほとんど生活が始まらないうちに嵐のように激しく慄然たる宿命を汲み尽くして、未来に頼るすべもなかった一人の無邪気な子供の冒険についての解釈を、です。



 このような、運命への明敏な眼差しによって否認された、原稿に関するものとはまた違った、別の強い興味の的になっているもう一つの仮定がとりざたされています。それは放浪生活に関するもので、もし彼が、青春の華々しい産物を意思をもって放棄し去った彼が、戻ってきて、それらがいまや花咲き、彼方のオアシスのそれらにまさるともおとらぬ、かつての栄光への好みにふさわしい豊かな果実を時代にもたらしているのを知ったとしたら、彼は再びその作品を否認しただろうか、それを摘み取っただろうか、というものです。人間に、その役割が終わったことを告げる運命の神は、おそらく、彼があまりの当惑によろめかぬようにと、今は異国のように感じられる生地を踏んだ、その脚を断ち切ったのでした。そしてその上にすぐさま、この患者と、たびたび彼に呼びかけたさまざまな声、とりわけ偉大なるヴェルレーヌの声との間に、病院の壁やカーテンの白い沈黙を置いて、終焉を告げたのです。
 自分の名声という思いがけない賜物を満喫して直ちにそれを退けるとか、反対に、その賜物を否認して、不在の間に大きくなったこの過去に羨望の眼差しを投げたりするとかいう羽目にならないように、______舌の上に転がしてみると新たなる意味を生じる"Arthur Rimbaud"の数個の音綴の方に彼が振り返ることを禁じたのでしょう。二者択一のこの試練は、それがどっちであろうとも同じ過酷さを持つものでしたし、これが実際に行われなかったことは幸せなことでした。しかしながら、結局のところ高邁で、妥協のなかった、______精神的にはアナーキストの______この生涯を、そこにありえたかもしれぬ美しさに沿うように仮説的に掘り下げてみるならば、この当事者は、きっと、かつて彼であり、しかしもはやいかようにも彼ではない誰かに関することのように、誇り高い無関心さをもって名声の結果を受け入れたかもしれぬという推測が成り立つにちがいありません。ただし、外地から持ち帰った財産をさらに増やすべく、非人称の幽霊が、もっぱら著作権ばかりを要求してパリをうろつき回って、厚かましさぶりを発揮したりはしないとしての話ですが。



                  Stéphane Mallarmé  
                              1896年4月




     


アルチュール-ランボー著作集の序

aroma22006-01-10

アルチュール・ランボー著作集の序

         ポール・クローデル   渡 辺 守 章 訳


     原注及び訳注は{ }内。特に原注は重要なので、併記。


 アルチュール-ランボーは野性状態の神秘家であった。湧き口を失っていた地下水が、水をいっばいに含んだ土のなかから再び姿を現わしたのだ。その生涯は一つの「誤解」〔正しく聞かないこと〕であり、彼をそそのかし駆り立てるあの声、そして彼がそれと認めようとはしないあの声から、遁走によって逃れようとする空しい努力であった。ついに追いつめられて、片脚を切断され、あのマルセイユの病院のベッドに横たわって、やっと彼にわかる時までは!

「幸福よ!ひどく優しいそいつの歯が、鶏の鳴く音を聴いて、………..朝明けに、だの、キリストは来り給えりの祈りの時に  { 手稿は、始め、「強き人々のためにキリストの来り給う時」。 }  -----陰欝極まる街々で、こう俺に教えてくれた」〔『地獄の一季節』錯乱Ⅱ〕「私達の居るところは、この世ではない!」〔『地獄の一季節』「錯乱Ⅰ」〕「精神によって、人は神のもとに至る!……俺に純潔の幻想を与えたものは、この目覚めの瞬間なのだ…もし俺がこの瞬間からはっきりと目覚めていたならば………」  { この部分、ランボーの原文と順序が違うし、多少、単語の異同がある、自由な引用だが、文意は変わらない。 }  (そして『地獄の一季節』の絶唱の部分すべて)……「胸を引き裂かれるこの不幸!」〔『地獄の一季節』「不可能」〕

 多くの文献のなかで、今、(ブレモン師の引用に従って)聖女シャンタルの言葉から借用しようと思う以下の文章を、比較参照して頂きたい。

「夜の白々明けに、神は、私の精神の高みを極めた至上の尖端において、私に微かな光明を、殆ど知覚できぬくらいにではあるが、味わわせてくださいました。私の魂の残る部分のすべても、その機能も、この光明には与りませんでしたし、またそれは、アヴェ・マリアの祈りを唱える時間の半分ほどしか続かなかったのです」  { アンリー・ブレモン著『フランス宗教精神文学史』第二巻、第七章、「フランソワ-ド-サルとジャンヌ-ド-シャンタル」五五三項。 聖女シャンタル(一五七二〜一六四一)は、十七世紀フランスの神秘家であり、夫シャンタル男爵の死後、聖フランソワ・ド・サルの精神的指導を受け、宗門に入り、千六百十年に「聖母訪問会」を創設した。}
 
 

 アルチュール-ランボーの出現するのは、一八七○年、わが国の歴史のもっとも惨めな時期であり、敗走と、内乱と、物質的・精神的壊滅と、実証主義の生み出す麻痺・昏迷の最中であった。突如として彼は立ち上がる--------「まるでジャンヌ・ダルクだ」〔『地獄の一季節』「悪い血」〕と後年の痛ましい叫びにあるとおりに。 { 「ヨハネと呼ばれる男が居た」訳注 新約「ヨハネによる福音書」第1章第6節「….彼自身は光ではなかったが、彼は光を証すために来たのだ….」。この「始めに言葉ありき」の章は、基督降誕祭の昼のミサにおいて称えられる。クローデルはこの日に回心した。 } この天から与えられた使命の悲劇的な物語を、パテルヌ・ペリションの著作『詩人、ジャン・アルチュール・ランボー』(メルキュール-ド-フランス社刊)に読まねばならぬ。彼に聞こえたものは、言葉ではなかった。声であろうか。いや、もっとっと徴かなもの、単に或る抑揚ある音にすぎぬ。だがしかしそれは、爾後、彼に休息も、「女たちとの交友」〔『地獄の一季節』「悪い血」〕も不可能ならしめるに充分なものなのである。彼を駆り立てたものが至高の意思であったと考えるのは、それほど無謀なことだろうか?我々すべてがその掌中にあるにもかかわらず、物を言わず、頑として口を閉ざしている或る至高の意思なのであったと。天才的な一人前の人間の表現力を備えた十六才の少年に出会うことは、ありふれた事柄であろうか。疑う余地のない記述が私達に語る、幼児が生れ落ちるや神の御名を讃えたということに劣らず、それは稀有のことである。ではいったい、この奇怪な事件に如何なる呼び名を与えればよいのか。
 
 

「俺は生きた、自然の光の金色の火花と散って。歓喜の余り、できるだけ道化て錯乱した表現を取ったのだ」〔『地獄の一季節』「錯乱Ⅱ」〕エデンの園の純粋無垢と、無限の優しさと、引き裂かれんばかりの悲しみを湛えた調べが、下卑て愚劣な世間の目に、くだらぬ文学の喧騒のなかに、一度か二度、響きだす。そしてこれで充分なのだ。「俺は、俺の血を掻き回した。俺の務めは果たされた」〔『イリュミナシオン』「生活Ⅱ」〕彼は語ることを止めた。封の切れている心に秘密は打ち明けぬものだ。彼に残されたのは、もはやただ沈黙すること、聴きとることだけである。再びあの聖女の言葉を借りれば、「思考は口に出すことによっては成熟しない」ことを知っているから。我々を取り巻くこれらの事物を、我々には反映として謎としてしか見えないことを彼は承知のこれらの事物を、熱烈な深い好奇心を以て彼は見つめる。もはや「異教徒の言葉」〔『地獄の一季節』「悪い血」〕では表現され得ぬ神秘的な共感を以って、彼は見つめるのだ。「何らかの始まり」、或る端緒なのである。終わりゆく世紀の探険家たちによって開かれたこの宇宙に、精神的な征服を挑むためには、被造物を汲み尽すには、被造物が言おうとすることから何かを知るためには、そして要するに、彼の存在の底にあって十字架にかける如くに苦しめるあの声に、幾つかの言葉を賦与するためには、人生をそっくり使っても余ることはないのである。
 


 我々の手に残されているのは、彼が苦渋に満ちて、「地獄堕ちした者の手帖」〔『地獄の一季節』の最初の章〕と呼んだ数葉の紙片である。この地上で一日限り我らの客となったその人が、「我々の如くかくも高貴でない輩の顔は見たくない」〔『地獄の一季節』「錯乱Ⅰ」。原文は「あなたのように……..」〕と、決定的にこの地を去った時、そこに残していった数ぺージの書に過ぎぬ。ランボーの文筆生活が如何に短かかったとはいえ、なおそこに、三つの時期、三様のあり方を認めることは可能である。
 
 
 
      
 


 第一の時期は、狂暴さの時期、純粋な雄の時期、吹き上げる血しぶきの如く、抑えきれぬ叫びの如くにその姿を現わす盲目的な天才の時期であって、前代未聞の力強く硬い詩句に表現されている。


躯は大きな苦痛によって、また金縛り、
恐るべき生の営みをまたもお前は飲む!感じている、お前は
血管中に群り湧く鉛色の蛆虫を!

(「巴里は再び大賑い」)




だが、女って奴は、累々たる臓腑の山よ、
優しくも衷れな!

(「看護修道尼」)

 
 


 天才の声変りとも言うべきものに立ち会い、罵倒や鳴咽や舌足らずの言葉のうちに、閃光目眩くあの筆致が炸裂し出現するのを見るのは、何と感動的なことであろうか! { ランボーのもっとも古い作品においても、すでに次のような詩句に出会う。  そこに、徐々に勝を占め、彼は事物を馴らして、万物の上に、馬上に跨る如く君臨しよう。…………………. 知らずにいる物事は、多分怖ろしいものだ!(「鍛冶屋」) }
 
 


 第二の時期は見者(ヴォワイヤン)の時期である。悲槍なまでに烈しく不器用な調子で記された、一八七一年五月十五日付の手紙 { 最近、パテルヌ-ペリションにより発見され、『新フランス評論』の一九一二年十月一日号に発表されたもの。 } のなかで、また、『地獄の一季節』の「言葉の錬金術」と題する数ぺージにおいて、ランボーは、彼の創始したこの新しい術、真に錬金術であり、質的転換の術の一種、この世の構成分子の精神的傾潟であるこの新しい芸術の方法を、我々に理解させようとする。死ぬまで彼を放さないこの逃走の欲求、すでに子供の時、自分の拳で我が目を潰させた「見る」ことに対するこの欲求(「七歳の詩人たち」)には、漠とした浪曼派的郷愁とはまったく別のものがある。「真実の生活はここには無い。私達の居るところは、この世ではない。」〔『地獄の一季節』「錯乱Ⅰ」〕問題なのは逃げることではなく、見つけることだ。「空間と公式とを」〔『イリュミナシオン』「放浪者」〕「エデンの園」を〔『地獄の一季節』「不可能」〕、そして、「太陽の子」として我々の原始の姿を〔『イリュミナシオン』「放浪者」〕回復することであったのだ。

 


 朝、人間と彼の記憶の世界とが同時には目覚めていない時、或いはまた、街道を行く長い一日の歩行の途中で、魂と、己れの律動的な遊戯に従わされた肉体との間に、断絶が生じる。一種の「開かれた」催眠状態が確立する。それは極めて特異な、純粋な受容性の状態である。この時、我々の裡において、言葉は表現であるよりは暗示的符号としての働きを持つ。精神の表面に昇ってくるふとした単語の数々、ルフラン(折返し句)、執拗に取り憑いて離れぬ連続的な文、これらが一種の呪文を構成し、それが意識を凝結せしめるに至る。が、一方、我々の内部の鏡は、外部の事物に対して、ほとんど物質的な感受性の状態に置かれたままでいる。事物の影は直接に我々の想像力の上に投げかけられ、その虹彩によって調色される。我々に対して交流が開かれたのだ。『イリュミナシオン』が表現しているものは、まさにこの歩行者の重層的状態である。一方には子供の輸踊りの唄やオペラの台本の言葉に似た短い詩句があり、他方には、文法的な彫琢や外在的な論理の代りに、一種の直接的で暗喩的な結合を構成する無秩序な映像がある。「俺は架空のオペラとなった。」〔『地獄の一季節』「錯乱Ⅱ」〕詩人は単語を探すことによってではなく、反対に、自分の身を沈黙の状態に置くことによって、そして、自然、つまり「こちらを引っ掛けて、引きつける」 、{  前掲、一八七一年五月十五日付書簡〔訳注 ポール・ドムニー宛の原文は、「思考をひっかけてとらえ、引きつける思考」〕。  } 感覚的形質を、自分の上に通過させることによって表現を見出す。世界と詩人とは、共に相互的にあばき出される。この力強く豊饒な想像力の人にあっては、「のような」という単語は姿を消し、幻覚が棲み着き、そして暗楡(メタフォール)の二つの極は、彼にはほとんど同じ程度の現実性を持ったものに思われてくる。「それぞれの存在には、然るべき他の生活が幾つもあるように俺には思われた。この人には自分のしていることが解らない。彼は、天使なのだ。この家族は一腹の仔犬の集りだ。」〔『地獄の一季節』「錯乱Ⅱ」〕 極端・過激な宗教的実践であり、「いわば物質主義的」神秘神学であって、そしてそれはさしも強靱で理性的なこの頭脳をも錯乱させかねないものであった。  {  前掲書簡  「僕は続けることができなかった、きっと気違いになっていただろうし、それに……..苦痛だった」(イザベル-ランボーに述べた言葉)。なお、『地獄の一季節』を参照   }   しかし問題は精神に至ること、「不在の」この自然から仮面を剥ぐこと、そしてついに、すべての感覚に受け入れ得るものとなったテクストを、「一つの魂と一つの肉体との裡に真理を、」〔『地獄の一季節』「訣別」〕我々の個性を備えた魂に適合した世界を、所有することであった。  { 「彼は真理を見たかった、欲望と本質的な満足の頃合いを識りたかった。それが、信心の迷いであろうと、なかろうと、とにかく彼は欲したのだ。少なくとも彼は、充分に広大な人間の力を持ち合わせていた」。ランボーの破壊的な面をよく示しているこの「小話」(『イリュミナシオン』)全編を参照。 }


 
 

 第三の時期-------------私はすでに屡々『地獄の一季節』を引用した。 { 一八七三年、すなわち『黄色い恋』〔トリスタン-コルビエール作〕と『マルドロールの歌』〔ロートレアモン作〕の年である。-------この時、神へ向かう道で、ランボーは、いわば嫌疑を抱いた時期のなかで立ちどまろうとしたのだ。しかし、宇宙と、「そして、二人が棕櫚の庭園のほうへ進んで行った午后」(『イリュミナシオン』、「王権」)とが残っている。} 如何にも沈欝で、苦渋に満ち、しかも同時に不思議な優しさのただようこの書物について、バテルヌ・ベリションのおこなった決定的な分析に、{ 『詩人、ジャン-アルチュール-ランボー』(メルキュール-ド-フランス社刊)。 } あえて私がつけ加えるものはほとんどない。この作品においてランボーはその詩法を完壁に駆使するに至ったのであり、ストラディヴァリウスの柔軟で乾燥した木質のように、その繊維のくまぐままでも明晰な音の浸透した、あの見事な散文を、彼は我々に聴かせようとするのだ。フランスの散文は、詩の歴史とはまったく別の、固有な、豊饒な歴史をもち、その歴史をとおして創造の営みはついぞ中絶も間隙も識らないのだが、そのようなフランスの散文は、シャトーブリアンとモーリス・ド・ゲランののちに、ついにここに到達したのだ。挿入節の持つ可能性のすべて、人類の国語がしつらえうる限りもっとも豊かでもっとも徴妙な語尾の響き合いのすべて、これらがついに全面的に活用されたのである。パスカルによって確立された、「内在韻」や主調音の調和の原理は、比較を絶して豊かな音楽的転調や協和音への移行と共に展開されている。  { 訳注 クローデルが一九二五年に書いた「フランス詩についての反省と提言」(『立場と提言』に収録、拙訳は筑摩書房『世界批評大系』第3巻に載っている)(日本での書名、『書物の哲学』(1983年法政大学出版局)が今日でも入手可能である。)を参照。    「パスカルによって確立された内在韻云々」は、単に同じ音素の照応ではなく、例えば同じOでも、………}

 

 一度ランボオの呪縛を体験した者は、ちょうどワーグナーの楽節の呪縛を受けた者と同様、金輪際それを祓うことはできないのだ。------論理的な展開によらず、音楽家における如き、メロディーの構想と、並置された音の関係とによって運ぶ思考の歩みも、重要な考察の主題となるはずである。

 
     
 


 私はペンを置き、彼の故郷、私が遍歴して帰ってきたばかりのあの土地を思いうかべる。黒々と澄んだムーズの流れ、メジィエールの町、険しい丘陵に挾まれた古城、鉱炉と轟音に満ちた川沿いの町シャルルヴィル。(彼が少女の墓のごとき白い墓石の下に眠っているのもこの地なのだ。)そしてあのアルデンヌという地方。土地は痩せ、幾棟かのスレート葺きの屋根がぽつんとかたまっている。常に地平線に連なるものは、伝説的な森の線。それはまたいたるところに泉の湧き出る土地。あくまでも澄んだその湧き水は、あまりにも深く、湧き出てはそのままにゆるやかに廻り続ける。睡蓮の群がる青緑色のエーヌ河と、硬玉の水の上に姿を見せる黄色く枯れた三本の長い芦。そしてあのヴォンクの駅。見渡す限りのポプラ並木がその縁に沿って連なる、不吉な運河。ここで、陰欝な夕べ、マルセイユから戻った片脚のない男が、母親のもとへと彼の身を運んでくれる車を待っていたのだ。それから、ロッシュにある、あの浸蝕された石壁の大きな館。百姓家風の屋根。戸口の上には一七九一年と刻まれた日付。彼が、最後の著作を書いた穀物部屋、その手稿を焼いた、大きな十字架像のある暖炉、彼の苦悩のベッド。そして私は、黄ばんだ紙片やデッサンや写真を、この手に取って見るのだ。なかでも、特に悲劇的なこの写真、ランボーがニグロのように真黒な顔をして、丸刈りの頭で素足、そしてかつて彼が称讃した徒刑囚 { 『地獄の一季節』、「悪い血」 } さながらの服を着て、エチオピヤの河辺に立っているもの、 {「ああ!僕のほうは、人生というものにまるで未練がありません。僕が生きているのは、疲れて生きることに慣れっこだからです。…….それから、このひどい気候のなかで、馬鹿げてもいるし激烈でもある苦しみで自分の心を養い続けることにも。……..この世において、真の休息の幾年かを、僕らも味わうことができますように。しかし幸いにもこの人生はこれ一度限りだし、それは分かりきったことです。なぜなら、この人生よりも大きな苦労を伴ったもう一つの人生なんて考えもつきませんから。」(アデン、一八八一年五月二十五日付〔家族宛〕)。彼は底に触れたのだ、少なくともそう信じている。さまよう男をついに定着させたこの紅海沿岸は、地上でもっとも古典的な地獄に似た地域である。「人の子がその扉を開いた、あの昔ながらの 地獄」(『地獄の一季節』) }  また鉛鉱山での肖像や、そして最後に、イザベル・ランボーマルセイユコンセプシオン病院における兄の最後の数日を物語るこの手紙を。 { この時期には、彼女は兄の著作をまったく知らなかった。この手紙はランボー夫人にあてたもので、コンセプシオン病院、一八九一年十月二十八日付のものである。}


「………彼は私を見つめていました、晴れ晴れとした眼をして…。すると、彼は言いました、部屋のなかをすっかり準備しなくては、すっかり片づけなくては、もうすぐ神父が聖体をもって戻って来る頃だ。いいかい、もうすぐ蟻燭やレースを持ってくるんだ。どこも白い布を掛けておかなければ……。目が覚めると、彼は絶え間ない一種の夢幻の状態で過ごすのです。彼は奇妙なことを口走りますが、その声の調子はとても優しく、もしその声が私の胸をえぐるような事がなければきっとわたしをうっとりさせるに違いないと思います。言っていることは夢です-------でも、熱のある時とは全然別です。
殊更に彼はそうしているのだとも言えるでしょうし、私もそう思います。{ この一文に傍点あり。 傍点は筆者クローデル } そのような事を彼が呟くので、修道尼がごく低い声で私に、また意識がなくなったのかしらと言われたことがありました。それが彼にも聞こえて、真っ赤になりました。それでもう何も言わなくなりましたが、修道尼の出て行ったあとで、私にこう言うのです。僕のことを気が狂ったと思っている。お前も、そう思っているのかい?いいえ、私はそうは思いません。生きていると言っても、ほとんど肉体は無いも同然なのですし、彼の考えていることは、どうしようもなく口に出てしまうのです。時々彼は、お医者様方に、自分に見える途方もないものが見えるかと尋ね、私の筆では表せないような言葉で、自分の感じていることを優しい声で話し出し、長々と物語るのです。お医者様方は彼の眼を見つめて、________これほど美しく知的であったことはなかったようなあの美しい眼を見つめて、お互いに、奇妙です、と申されます。アルチュールの症状には、この方々には分からない何かがあるのです。もっとも、お医者様方はもうほとんどお見えになりません。彼がお話をしながらよく泣きますし、それで困ってしまわれるからです。________彼はどの人を見ても誰だか区別がつきます。私のことは時々ジャミと呼ぶのですが、それはそうしたいからで、これも彼の求めている夢に属しているのだということが、私には分かっています。それに、彼は何もかも混同します。しかも、........巧みに。私たちはハラールに居るのです。いつもアデンにむかって出発するのです。駱駝を見つけ、隊商を組まなくてはならない。かれは関節のある新しい義足をつけて、いとも楽々と歩き廻ります。私達は豪華な馬具をつけた美しい騾馬に跨って、あちらこちらと散策に出かけるのです。それから、働かねばなりません。帳簿をつけ、手紙を書かなくては。早く、早く、人々は私達のことを待っている。スーツケースの蓋をして、出発だ。どうして自分を起こさなかったのだ。なぜ、服を着るのを手伝ってくれない。もし、今日中に着かなかったら何といわれるだろう。人はもう自分の言葉を信じちゃくれない。自分のことを信用してはくれなくなるなるだろう!そして彼は泣き始め、私が不手際だ、投げ遣りだといって恨むのです。なぜって、私はいつも彼と一緒にいて、すべて用意は私の役目になっているのです。」

 私は、彼の言葉をそのままに信じてきた者の一人である。彼を信頼してきた者の一人である。

         一九一二年七月

       Paul Claudel: PREFACE AUX CEUVRES D’ARTHUR RIMBAUD  

世の中は仮装舞踏会

aroma22005-12-19

Nobody knows himself

The world is a masquerade.Face,dress and voice,all are false.All wish to appear what they are not,all deceive and do not even know themselves.

世の中は仮装舞踏会だ。顔、服装、声、すべてみせかけだけのもの。なにもかも本性は、深くかくされている。すべてがごまかしだ、そして連中にしても決してそのことを知りはしないのだ。


[ 43] The sleep of reason produces monsters

Imaglnation abandoned by reason produces impossible monsters: united with her,She is the mother of the arts and the source of their wonders.

La fantasia abondonada de la razon, produce monstruos imposibles: unida con ella, es madre de las artes y origen de sus marabillas.


分別に見放されてやっと、イマージュは想いもよらないようなモンスターに出会う。モンスターと合体してはじめて、イマージュは芸術の母体となり得るし、畏怖の源泉ともなってゆくのだ。

(....「理性を失った想像力はあやしきものどもをおびきよせる」の解釈は不可。理性などという言葉は曖昧だし、ゴヤはちっぽけで間違ってばかりいる世間の分別というものを哂っている。なるほど分別あってこそ世間というものが存在するのだろう。理性の根拠を疑わないような理性でこの地上の人間の景色を根底から捉えることなどとは笑止な業だ。問いはゴヤという人から発せられ、一切の理性的で表面的な外観は疑われる。ゴヤが欲しているのはもっと迅速に全体をつかむ眼だ。想像力というものが謎だ。......)



ベルグソン 創造的進化  第三楽章 カデンツァ  



 もっとも意識はみちみち厄介な荷物ばかりを捨てたわけではない。貴重な財もあきらめなければならなかった。意識は人間においてはなによりもまず知性である。それはさらに直観でもありえたし、またあるべきだったのではないか。直観と知性は意識作業のむかう相反する二方向をあらわす。直観は生命の方向そのままにあゆむのに、知性は逆の方向にすすみ、したがって物質の運動とごく自然に調子があう。完全で充実した人間性とはそうした両形式の意識活動を発達させきった人間性のことであろう。もちろんそれと私たちの人間性とのあいだには沢山の中間段階が考えられるわけで、これらは想像可能なあらゆる度合の知性や直観に応じている。そこに私ども人類の精神構造において偶然のはたした役割がある。進化が別であったらもっと高い知性の人間性か、もっと直観的な人間性に行きついたかもしれない。事実は、私どもを成員とする人類では直観はほぼ完全に知性の犠牲になっている。意識は物質を征服し、それからひるがえって自己支配にもどるために、自分の最上の力をつかいきらなければならなかったらしい。そのような征服がそうした特殊な環境のなかでなしとげられるためには、意識は物質のさまざまな習性に適応してありったけの注意をそれらに集中しなければならなかった。つまり、いっそう知性らしくなる方向に自己決定をしなければならなかった。それにもかかわらず直観は、ぼんやりとして、ことに非連続的ながら、りっぱにある。それは消えなんとする燈火であり、間遠にそれもほんの数瞬間あかるさを取りもどすにすぎぬ。しかし要するに命がけの関心のはたらいているところでは直観は勢いをもりかえす。私たちの人格、私たちの自由、私たちが全自然界で占める位置、私たちの起源、そしてまたたぶん私たちの運命など、それらのものの上に直観はかすかなゆらめく光を投げかける。そんな光にでも、知性によって置きざりにされた私たちの夜の闇をとおす力はある。
 そのように消えさりがちなほんの間遠に対象を照らしだす直観を、哲学はそのつど奪いとらなければならない。それらの直観をまず確保し、それから薄くのばして直観同士で触れあうようにしなければならぬ。この仕事がはかどるにつれて哲学はいよいよ深くさとる。直観は精神そのものだ、ある意味で生命そのものだ。知性は物質を生みだした過程にまねた過程がそこに切りだしたものにすぎないのだ。____精神的生命の統一が明るみにでる。その統一をあるがままに知るためには直観のなかに身をおいて、そこから知性に進むほかない。知性からはけっして直観に移れないであろう。
 そのようにして哲学は私たちを精神的な生にみちびきいれる。それと同時に、精神的な生と身体的生命との関係も示してくれる。精神主義の諸教理の大きな誤りは、精神的生命を他の一切から孤立させ地上からできるだけ高く宙に祭りあげることによってあらゆる攻撃からそれを守ってやった、と信じたところにある。そんなことをすれば精神的生活が蜃気楼の産物なみに受けとられるばかりだとは思わぬらしい。なるほど、精神主義には意識が人間の自由をみとめるさい、そのいい分に耳をかたむけるだけの理がある。しかしそこに知性がひかえていて、原因は結果を決定する、同は同の条件だ、一切はくりかえす、一切は所与だという。精神主義には人格が絶対事象であり、物質にたいして独立であることを信じるだけの理がある。しかしそこに科学がひかえていて、意識の生活と頭脳活動との連帯性をつきつける。精神主義が自然界で取っておきの地位を人間に割りあてて動物から人間への距離は無限だとするにも理がある。けれどもそこには生命の歴史がひかえていて、さまざまの種が徐々に変形しつつ発生するさまを目撃させて、人類をもとどおり動物界に組みいれるようにみえる。精神主義には人格の永生の確からしさをとなえる力づよい本能の声にたいして耳を塞がないだけの理もある。けれども、だから「霊魂」は存在していて独立な生をいとなみうるものだということになると、では霊魂はどこから来るのか、身体は両親の身体から借りた一箇の混合細胞からごく自然に私たちの目のあたりに生れるものなのに、霊魂はいつ、どのようにして、なぜこの身体にはいりこむのであるか、おおよそそうした質問はいつまでも答えられないであろう。直観の哲学は科学の否定になり、科学によって遅かれ早かれ一掃されることであろう。そうなりたくないなら、直観哲学は心をきめて身体の生命をそのありのままの場処に、精神的生命への途上に置いてながめることにしなければならない。しかしそうなれば直観哲学はもはやあれとかこれとかの限定された生物にはかかずらわなくなる。生命ははじめてそれを世界に投げこんだ原衝力までもふくめて、その総体が物質の下降運動にさからわれつつ上昇する波となって直観哲学に現われることであろう。あげ潮はほぼその全表面にわたりのぼった高さはさまざまながら、物質にはばまれてひとつ場処での渦巻にかえられてしまう。たったひとつ潮の自由に通りぬけた点がある。潮はそのさい邪魔物をひきずってゆくが、そのために足どりは重くなっても止められることはあるまい。この地点に人類はいる。そこが私どもに取っておきの位置なのである。ところで他方からいうと、その上昇する波はただちに意識であって、それはあらゆる意識なみに無数の潜勢力を相互透入したまま包んでいる。相互透入したそれらの潜勢力には一とか多とかいう、無生の物質用のカテゴリーは適合しない。ただ波が物質をはこびながらその隙間にはまりこむ場合、物質は波をはっきりとした個体に分けることができる。つまり波がすすんでいるので、それが人間の世代をつらぬきまた個体に小分けされるわけである。その小分けの線は流れのなかにぼんやりと描かれてはいたものの、物質がなかったら際立ちはしなかったろう。してみれば霊魂は不断に創造されるもので、しかもある意味ではやはり先在していたこととなる。霊魂とは生の大河が細流にわかれ、これらが人類の身体をながれて過ぎるものにほかならない。流れの運動はどうしても川ぞこの屈曲どおりになるにしても、それは川ぞこと区別される。意識はその生気づけている有機体からあれこれの変化をこうむるとしても、有機体とは区別される。意識の状態には可能的行動が素描のかたちでふくまれていて遂行のきっかけをいつも神経中枢のなかから受けとるし、同様に脳は意識状態における運動への分節構造をたえず裏打している。けれども意識と脳の相互依存はそこどまりで、意識の身の上はそんなことで脳物質の身の上に結びつけられはしない。要するに意識は本質的に自由であり、自由そのものである。けれども意識が物質を通りぬけようとすれば、物質のうえに乗るほかなく、それに適応するほかはない。その適応がいわゆる知性らしさなのである。ところが知性は活動的な意識の方をふりかえって、物質がいままで知性の枠におさまるさまを見なれてきたままにその自由な意識までも何となくおなじ枠にいれてしまう。そこで知性は自由をつねに必然の形でみとめることとなる。知性は自由な行為に欠くことのできない新奇さや創造の面をつねに無視するであろう。行動そのものをつねに模造品で置きかえて、旧を旧に同を同に組みかさねて人工的な近似物を作りだすことであろう。そのようなわけで知性をもとどおり直観のなかに吸収しようとつとめる哲学の目からみれば、難問の多くは消えるか弱まるかすることになる。もっともそのような哲理はたんに思弁を容易にするばかりでない。それはまた私たちの活動するカや生きる力をましてくれる。けだしそのような哲理をいだくとき、私たちはもはや自分を人類のなかで孤立したものとは感じないし、人類もまた自然を支配はしながらその孤児としてはあらわれなくなる。一片のあるかなきかの塵すらこの太陽系の全体と連帯していて、太陽系とともにひきずられて物質性そのものとしてのあの不可分な下降運動をおこなっている。一切の有機的存在もそれと同様で、もっとも賤しいものから最高等のものまで、生命のそもそもの起こりから私どもの今日にいたるあらゆる時あらゆる場処において、それらはある独一な、物質の運動と逆方向でそのものとしては不可分な衝カをひたすら私たちの目に焼きつける。一切の生物はたがいにかかわりあい、いずれもおなじ烈しい推力に押しまくられている。動物は植物によって立ち、人間は動物界に馬乗りになり、そして全人類は時間空間中を大軍となって私どもひとりびとりの前後左右を疾駆する。そのあっぱれな襲撃ぶりは一切の抵抗を排し幾多の障害にかち、たぶん死さえも躍りこえることができよう。