Divagations ; "Arthur Rimbaud" Stéphane Mallarmé

aroma22006-01-12

Divagations ; "Arthur Rimbaud" Stéphane Mallarmé 


アルチュール・ランボー
   _______________ハリスン・ロウドゥズへの手紙   マラルメ


昭和55年、文芸読本 ランボー (河出書房新車)78ページから84ページ、

アルチュール・ランボー
   _______________ハリスン・ロウドゥズへの手紙   マラルメ

 これは、新納みつる訳です。私自身この訳を何度も読んだのですが、ところどころ、どうしても意味不明な箇所があり、マラルメ全集Ⅱの渋沢孝輔訳も見ました。渋沢孝輔訳もすばらしいのですが、やはりところどころ、私の頭をさかさまにしてみても意味不明な細部、箇所がありました。翻訳によって重要な意味が隠されてしまったり、ぜんぜん文章からイメージがわかなかったりします。おそらく、マラルメの散文自体が紆余曲折した構成を持ち、関係代名詞というものがフランス語にもあるのかどうか詳しく知りませんが、語順に沿って無理に文法を通そうとする結果ではないかと思われます。がんばればマラルメの原文を手に入れることは絶対不可能ではないのでしょうが、さて、手に入れたところで、私はフランス語を習ったこともなく、訳す気力もわかないことでしょう。新納みつる訳は若干の細部を変えて1971年ユリイカの VOL3・5 「総特集 ランボオ 臨時増刊」 (青土社) 46ページにも掲載されております。さらにまた、小林秀雄 「ランボオⅢ」にも、数箇所が著者によって独自に翻訳されて引用されております。そこで、これら3つの書を参考に、無理にも意味を通させようと勝手な推敲、校正を企てて、掲載してみましたので、興味のある方はどうぞ。( )内に参考となる文献、引用、説明を入れました..........。マラルメによる原注()はアビシニアの政治情勢に関する部分と、「英雄的なヴェルレーヌ」の部分のみです。随時校正、改変の予定。



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 『 アルチュール・ランボオ 』     

 

     _____ ハリスン・ロウディス氏への手紙    《ディヴァガシオン収録》



        アメリカの雑誌「チャップ・ブック」の
        編集長ハリソン・ローズからの急な依頼
        で書かれ、1896年5月15日号に掲載された。



 

 ときおり開かれるあの火曜会の一夜、貴方が私の家でわが友人たちの語らいに耳をお傾け下さった折に、不意に、アルチュール・ランボオの名前が、何本かの煙草の煙につれてゆらりとゆらめき出たというようなことがあったのかもしれない。そして、そのとき、何か茫漠とした面貌が一座の席に付け加わったかのようであったのかも。そのことがあなたの好奇心を惹き、その名が貴方の中に留まったのかと想像いたします。
 貴方はお尋ねになってらっしゃる。それはどんな人物なのか、.............。それにしてもその人は、『地獄の一季節』、『イリュミナシオン』、そして最近まとめて出版された『全詩集』(ヴァニエ版)といった本によって、誰かその名を仄めかす者があると、人々は謎をかけられた様に黙り込み、物思いに沈み、恰も、多くの沈黙や夢や中途半端な賛嘆の念を、一時に押し付けられる様な有様であった、........それほどに特別な影響を、近頃の詩や詩人たちに与えているのではないか?と。
 親愛なる客人よ、その名の人のために楽弓を挙げた当人たる偉大なる我らが同士、ヴェルレーヌを、おそらくは奇しき例外として、今日、主要な革命的詩人たちのうち誰か一人でも、また何程かの深さにおいて、或は直裁に、その人アルチュール・ランボオの影響を受けたなどとはお思いにならないで下さい。そしてまた、詩に許された自由というものも、更に言えば、奇蹟によって迸り出たとも見える自由な詩も、その自己証明のためにこの人物を引き合いに出すことはできまいとおもわれるのです。ここ数十年の一切の詩の片言と別れて、或いは、まさしく片言が途絶えた時に、彼は古代の戯れの厳密な観察者であったのです。彼が、精神上のエキゾチックとでも言うより他はない様な情熱の豪奢な無秩序を提げて、パルナシアン(高踏派)以前の、ロマン派以前の、いや、極めてクラシックな世界に対抗して生み出したその魔法の様な効果をとくとご鑑賞になり、その深さをお測りになってみてください。ただただ彼が現存するという動機によってのみ点火された流星の光輝であり、独りで現れて、消えてゆく人。凡そそういうものはすべて、確かに其処にどんな文学的環境の準備があったわけでもなかったのですから、この途轍もない通行者がいなくても、以前から間違いなく存在していたことでしょう。個人的な状況が、力ずくで居座っているのです。


 この途方もない人物についての私の思い出を、というよりは、多くは私の考えを、打ちとけたお喋りのように、貴方のために物語るといたしましょう。


 私はその人とは識り合いではありませんでしたが、一度だけ見かけたことがあるのです。戦後(普仏戦争のことをさす)ただちに出来た文学者たちの食事の会のひとつ_______ディネー・デ・ヴィラン・ボンゾム「醜いが気のよい男たちの晩餐会」(マラルメの書類の中からは、1872年6月1日土曜日のこの会への招待状が見つかっている。この夜であろう)での席上のことですが。ヴェルレーヌがこの会食者に捧げている肖像(これはファンタン・ラトゥール「食卓の一隅」のことを指す)に鑑みれば、この命名はまさに反語でしょう。
 「その男は背が高く、がっしりとして、運動選手といってもよいくらいだった。完全に卵型の流竄の天使の顔立ち、櫛を入れないもじゃもじゃの明るい栗色の乱髪、眼は人を不安にさせる淡いブルーで穏やかならぬ光があった。」(.....ヴェルレーヌ「呪われた詩人達」からの引用)さらに思い上がってというか、なんというかわけのわからないものに駆り立てられた育ちの悪い娘の口調をもって意地悪く付け加えるならば、その人は洗濯女のようでした。暑さから冷たさへの移り変わりの時期に由来する、霜焼けで真っ赤になる大きな手のせいです。(ヴェルレーヌ前夫人マチルドは、71年秋のランボオの初印象を骨格の大きい少年と語っている。『......それは、赤ら顔の、大柄でがっしりした、百姓のような少年でした。成長が早すぎた、若い中学生といった様子でした。ズボンが短くなってしまって、母親が手ずから編み上げた、青い綿の半靴下が、まる見えになっていましたから。髪の毛はくしゃくしゃ、ネクタイはよれよれで、いかにもだらしのない身なりでした。眼は青く、かなり美しく見えましたが、そこには何か陰険そうなところがありました。私たちはそれをなんとも甘いことに、内気とはにかみのせいと理解したのでした。....』)それが一人の青年のものであることを考えると、その手はもっと別の何か凄まじい職業を物語っているかのようでもありました。私は知ったのでした。その手が、公刊されてはいないが、美しい詩句を当時すでに書いていたことを。すねてふてくされたような、嘲笑的なひだに結ばれたその口は、一行をも朗読して聞かせてくれることはなかったのです。


  われ、非情の河より河を下りしが、
  船曳の綱のいざない、いつか覚えず。
  罵り騒ぐ蛮人は、やつらを的にと引っ捕へ、
  彩色(いろ)とりどりに立ち並ぶ、杭に赤裸に釘付けぬ。


という詩句も、そして


  小児等の齧りつく酸き林檎の果よりなほ甘く、
  緑の海水は樅材の船板に滲み透り、
  洗いしものは安酒の汚点、反吐の汚点。
  舵は流れぬ、錨も失せぬ。


そしてまた、



  まばゆきばかり雪の降り、夜空の色は緑さし、
  海を離れてゆらゆらと、昇る接吻も眼のあたり。
  未聞の生気はただよひて、歌ふが如き燐光の
  青色に黄色に眼醒むるを、われはまた夢みたり。


そして、


  また、或る時は殉教者、地極に地帯に飽き果てゝ、
  海啜り泣く声きけば、僅か慰む千鳥足。
  黄の吸玉ある影の花、海わが方にかざす時、
  われは、膝つく女の如く動かざりき。


それから、


  見ずや、天体の群島を、
  島嶼、その錯乱の天を、渡海者に開放てるを。
  そも、この底無しの夜を、汝れは眠りて流れしか。
  あゝ、金色の鳥の幾百万、当来の生気はいづこにありや。



 そして、この傑作には天才の目覚めが原始的な姿で伸びをしているのですから全体の展開を見なければならないでしょうが、その全体がこの新人のうちで口をつぐんでいたのです!つまり、『Le bateau ivre(酔いどれ船)』は、すでに、あのとき、作られていたのでした。わずかの間に人々の記憶にたたきこまれ、人が詩句を口ずさみつづける限り、人の口から湧き出でつづけるであろうものすべてが、口をつぐんでいたのです。同じころか、あるいは、邪まにしてすばらしい思春期のころの作品、「椅子にすわった連中」、「虱をさがす女たち」、「最初の聖体拝受」、と同様に。世俗の悪癖である詮索好きな好奇心は免れているわれわれの交際仲間が、ややこの青年への注意を怠っているうちに、この青年に関して、1872年に行われた、当時17歳の彼の第四回目の旅行のことが噂となりました。このときも、それ以前の旅行と同じく徒歩で行われたもののようです。それらのうちの一度などは、彼の生誕の地アルデンヌ県のシャルルヴィル市からパリに向かったのですが、高等中学生だった彼が修辞学級での賞品すべてを売り払ったお金で、まずは豪勢にとりおこなわれたものなのですが。しかし、その都度呼び戻されては、そこで、家族、つまり退役将校の父とは別居中である田舎出の母親と仲間たち、クロス兄弟やフォラン、のちにはヴェルレーヌとの間に、行ったり来たりが繰り返されました。出かける時には運河を往く石炭船の上で寝る危険を冒し、戻るときは、コミューンの兵士たちや戦闘員らの前哨戦に引っかかったり。窮地に陥るとこの大きな小僧っこは、巧みに党の義勇兵になりすまして、自分のための義捐金を募る慈善運動を煽ったりしました。その後にも何やかやの雑多な小事件..............、それらは要するに最悪の混乱、すなわち文学によって暴力的に害された者に特有のものなのです。それからベンチの上や図書館で勤勉な時間をゆっくりと過ごした後、今度は早熟にして強烈な、確固たる表現の持ち主となり、それが彼を未聞の主題へと駆り立ててゆきました_______すぐさま、「未知の」と彼の強調する「新しい感覚」の探求を彼は主張し、しかも彼はそれを俗な、都市の幻想安売り市場あたりで掘り出せると得意になって自慢していました。そこは、俗ではあっても、この青春の悪魔に、或る夜、何らかの壮大にして人工的なヴィジョンをゆずり渡し、その後は、単に酒に酔うだけでもヴィジョンは見続けることができるというのでした。



 安手の逸話には事欠きません。途中で断ち切られた生活の糸が新聞、刊行物の類の上に逸話として散らばり落ちました。それらのこまごまとした話を、多くの人々を介してやっとこさ百人目くらいにその話を聞いた人間みたいに、いまさらちらつかせてみたところで何になりましょうか。ガラス玉にわざわざ糸を通し、黒人の酋長の首飾りを造るようなもので、時間の無駄でしょう。_______実際、後には、何処か未知、未開人種になっている詩人を絵に描くというような冗談も生まれたのです。(ドラエイ等がランボオをホッテントットと呼んでふざけた)貴方はそれらを私がどのように受け取るかをご覧になりたいのだと思います。ひとつの意味深い運命のあらすじをたどってみて、そこに最大限の真実らしさを注ぎ込むことになればとお望みなのでしょう。運命は、外見的にはそのわき道と見えるところにも一人の歌びとのものであるリズムとある不思議な単一性をとどめているに違いありません。しかし、それはそれとして、親愛なる友よ、御質問のおかげで、私自身にとってはじめて、この貴方の心を魅し惹きつける人物をその全体像として喚起してみることができたことを感謝申し上げて、話の筋から逸れますが、ひとつの笑い話を思い出してみたいのです。それは、テオドール・ド・バンヴィルがにこやかに、例の魅惑的な語り方で、私に語ってくれたもので、この巨匠が善意の救いの手を差し伸べたという話です。ランボオが彼に会いにやってきました。私たちの仲間の一人の意向で。そして、偉大な作品が作れるようになりたいのですがと、なまりの多い言葉ではっきりと告げました。バンヴィルは意見を述べて、まずそのためには、才能というのは二の次で、住むべき部屋を持つことが第一であると語り、ビュシー街の自分の家の屋根裏部屋を貸しあたえたのです。それに机がひとつと付属品としてインク、ペンと紙、また、立ったままや椅子に座って夢を見るのではないときのために、清潔なベッドも。さすらいの若者がここに定住の地を得たのです。だがしかし、中庭が芳香によって各戸の夕餉をひとつに結ぶ時刻に、各階で挙げられる叫び声を耳にし、直ちにてっぺんの屋根窓の枠の中に裸の誰かの姿を認めたとき、この、方法的贈与主の仰天したこと、いかばかりだったでしょう。その男は気の狂ったように着物のぼろを振り回し、夕陽の最後の光とともに消え失せてしまえとばかりにそれを屋根瓦ごしに投げ捨てていた。彼が、この、とどのつまりは神話的な振る舞いを神かけて気遣うと、アルチュール・ランボオは答えたものでした。「ぼくはこんなに清潔で純白の部屋に、虱だらけの古着で出入りするわけにはいかないのです」。この抗弁によって、『追放者』の作者は、そこに確かに含まれている正しさを認め、おのれの側の不明を責めなければなりませんでした。この家主は、自分の衣類を着替え用に提供し、夜の食事に招待したのちはじめて、自分が正しいと判断しました。なぜなら「注目すべき詩を生み出したいのなら、住居のほかに、着るものが必要だし、めしもまた一刻もはやく喰わねばならぬ」から。




 パリの魅力も色褪せ、そこで、結婚生活への生来の不調和と、コミューヌ下のしがない官吏として、官憲の追跡の恐怖に悩まされていたヴェルレーヌと、そしてランボオとはロンドンを訪れることにはっきり心を決めました。ロンドンで二人は石炭の自由な煙のにおいを吸いながら、相互の泥酔による、酒と乱闘の悲惨な生活を送りました。まもなくフランスからの一通の手紙が逃亡者の一人に呼びかけて、その相棒を捨てるならば、罪を許すと言ってきました。若い妻は、面会の約束の場所で母と姑とにかこまれて和解の時を待っていました。私はベリション氏によって見事に描かれた話を本当のことだと思います。(「英雄的なヴェルレーヌ」パテルヌ・ベリション、ルヴュ・ブランシュ;1896年2月15日号)
 そこで私は彼に従って、世にも悲痛な喧嘩のことをここに書きます。その手のつけようのない不幸に陥った二人の詩人の、傷を受けた方も錯乱した方も、その悲劇の主人公とみなされるのであるがゆえにだからこそ世にも悲痛なのです。三人の婦人たちから声を合わせて懇願されて、ヴェルレーヌは友達をあきらめました。だが、ホテルの部屋の入り口で偶然にもその友を見かけ、思い切ってついてゆこうとしましたが、心冷えた相手は「二人の関係は永久に切れるべきだと断言」し、そんなことはするなと非難しました。ヴェルレーヌは聞き入れませんでした。_______ブリュッセルにいたのは単に帰国するための金を援助してもらうのが目当てだったが、「たとえ一文無しでも」「出発するつもりだ」とランボオは言いました。激しく拒絶する相手にヴェルレーヌは取り乱して、つれない人にピストルを発射し、その前で涙にかきくれました。続いていますぐお話しますが、この事態が内輪ですまないことはわかりきったことです。ランボオは施療病院から包帯をして帰ってきました。そして往来でなんとしても出発するのだと言いはって、もう一発の弾丸を受け、そこで事件は公けのものとなりました。彼にあんなにも貞節だった人は、モンスの監獄で二年間、その償いをしました。ランボオは孤独になり、決定的な危機にみまわれましたが、この悲劇的事件ののちの彼の心を読む何ものも残ってはいないと言っていいでしょう。この危機は、彼がいっさいの文学を、その仲間も書くことも止めてしまったがゆえに、まさに関心をそそるものなのですが。
 行動についてはわかっています。1875年に、何らかの目的を抱いて再びイギリスに行ったはずですが、こんなことは取るにたりません。それからドイツに渡って、教職と、彼固有の言語への熱狂をかなぐり捨てて収集した数ヶ国語の才能とを身につけ、ついで、鉄道でサン・ゴダールまで行き、アルプスを徒歩で越えてイタリーに到着。数ヶ月滞在。キュクラデス諸島まで足をのばし、日射病に倒れて、公式に本国送還となります。
 地中海東部沿岸の東方から渡って来る微風におのれの頬を軽くなぶられてから後のことです。




 この後に不思議な謎のような時期が来ます。尤も、次の事を認めるなら、謎であるのは当然といえるのだが。自分のせいでか、それとも夢そのものの咎でなのか、いずれにしても、夢を吐き出して生きる人間、生き乍ら、詩(ポエジイ)に手術されるこの人間には、以後、遠い処、非常に遠い処にしか、新しい状態をみつける事ができない事を。忘却は沙漠と海の広さを内包しています。かくて、熱帯地方への遁走、おそらくは、その景色のもの珍しさとか風景への興味などにはまったく無関心なうちになされた遁走。1876年のそれは、オランダ軍との契約でスマトラにゆく募集志願兵としてであり数週後には脱走して、このときには図太く人買いとなる前に、貰った契約金をはたいてイギリス船に乗りこみ、そこで小金を貯めたかと思うと、デンマークとスゥエーデンでそれを無くし、そこからまた本国送還となったのです。1879年には、キプロス島で大理石石切現場の監督となり、そのあとエジプトに向かい、アレキサンドリアへと至り、_______その余の日々はトレタン(奴隷売買業者)となっているのが見られるでしょう。欧州への、耐え難いその風土!、その習慣!、への決定的な訣別が現れるのは、アビシニア[軍事事件紛糾する昨今の舞台です](現在のエチオピア)の近くのハラルへの旅によってですが、そこでのこの追放者の全行動に関しては沙漠のような沈黙が広がっています。彼は、沿岸とその対岸のアデンで象牙、砂金、香料などの取り引きを行いました。______それにしても、かつてその手で本のページにそっと触れた人がそうであったように、再び、彼は、おとぎ話のように貴重な品々をこの上もなくうっとりとしてなでていたのでしょうか。______おそらくは、そうではない。『アラビアン・ナイト』の東洋趣味や地方色に汚れたような己れの安っぽい金ぴかの希少性に惹かれて心動かされていたのではなく、おそらく、広漠への、独立不羈への渇望をもって諸々の風景を飲み込み、そこに感動を覚えたのでありましょう。それでも、詩の天分が否認され詩なしですますようになると、すべてはどうでもよくなってしまうものだ。個人の内側に文明の最後の痕跡までもが消え去ろうとするとき、男らしくとか、野性的に生きるなどというヒロイックなことでさえ、無意味でどうでもよいことになってしまうものなのです。




 1891年に、思いがけないニュースが新聞に流されました。私たちにとってかつて詩人であり、今なお詩人であり続ける人が、旅行者として、財産を持ってマルセイユに上陸し、関節炎の手術を受けて、最近そこで亡くなったばかりなのでした。彼の柩はシャルルヴィルへの道に向かい、かつてあらゆる喧騒からの避難所であったこの街に、一人の妹の篤い信仰心によって迎え入れられました。




 なにももたらさない甲斐のない試みが、いとも容易に良心というものに取って替わるということがある、.....それは私にもわかっております。私の良心は機会があると、ひと気のないところで、声高にこの点に関して言い訳したのでした。というのも、他人の人生を表現するために、それを判りやすくもっともらしい断片に整理するなどということは全く無作法なことなのです!ところが、私は、ただもうこの手の犯罪に類する行為をとことんまで押し進めているのです。ひたすら調べを続けているのです。 _________ランボオの同郷で、高等中学校の仲間だったエルネスト・ドラエー氏の回想によると、1875年ごろ、ランボオが何度かの出発と帰省とを繰り返しているその移動の合い間に、一度会ったことがあり、ランボオの昔の目標についてそれとなく、ひかえめに、訊ねてみたそうです。わずかな言葉で。私の聞いているところだと「で、文学は?」といったぐあいにです。相手は聞こえない振りをしましたが、ついに、「いや、あんなものはもうやらない」と簡単に答えました。そこには、後悔の色も自負の調子もありませんでした。「ヴェルレーヌは?」と、その人について話したい気持ちに駆られて聞くと、何の返事もありませんでした。故意に避けたのでないとすれば、むしろ、極端な行動の記憶を不愉快に思ってのことだろうというドラエーの意見です。




 大衆には習い性の、かくされた宝とか、伝説の宝物の話を好む趣味に乗じる出版物のなかで、何人かの者が想像力を燃やして、いく篇かの詩が彼の蛮地で書かれて、未完のままになっているかもしれないという驚くべき物語りをつくりあげました。彼らのインスピレーションのなんという闊達、その口調のなんという無邪気なことか。あるとすればこうだったろうというふうに人々は未刊の詩集を夢見ているのです。もちろんそこには幾許かの道理もあるわけで、一人物のまわりに漂う可能性は、考え方の上では、何一つないがしろにしてはならないわけですから.........。たとえ真実さに欠けているとしても、可能性が完全に消え去り雲散霧散するまでのしばらくの間は、そこに伝説的な話がこうしてどこからともなく巻き起こるわけです。しかしながら私は、成熟期の作品があるかもしれないと考え続けることは、芸術の歴史における唯一無二の冒険の正確な解釈を損なうことになると考えます。冒険______余りにも若くして、早熟に、文学の翼に激越に打たれ、ほとんど生活が始まらないうちに嵐のように激しく慄然たる宿命を汲み尽くして、未来に頼るすべもなかった一人の無邪気な子供の冒険についての解釈を、です。



 このような、運命への明敏な眼差しによって否認された、原稿に関するものとはまた違った、別の強い興味の的になっているもう一つの仮定がとりざたされています。それは放浪生活に関するもので、もし彼が、青春の華々しい産物を意思をもって放棄し去った彼が、戻ってきて、それらがいまや花咲き、彼方のオアシスのそれらにまさるともおとらぬ、かつての栄光への好みにふさわしい豊かな果実を時代にもたらしているのを知ったとしたら、彼は再びその作品を否認しただろうか、それを摘み取っただろうか、というものです。人間に、その役割が終わったことを告げる運命の神は、おそらく、彼があまりの当惑によろめかぬようにと、今は異国のように感じられる生地を踏んだ、その脚を断ち切ったのでした。そしてその上にすぐさま、この患者と、たびたび彼に呼びかけたさまざまな声、とりわけ偉大なるヴェルレーヌの声との間に、病院の壁やカーテンの白い沈黙を置いて、終焉を告げたのです。
 自分の名声という思いがけない賜物を満喫して直ちにそれを退けるとか、反対に、その賜物を否認して、不在の間に大きくなったこの過去に羨望の眼差しを投げたりするとかいう羽目にならないように、______舌の上に転がしてみると新たなる意味を生じる"Arthur Rimbaud"の数個の音綴の方に彼が振り返ることを禁じたのでしょう。二者択一のこの試練は、それがどっちであろうとも同じ過酷さを持つものでしたし、これが実際に行われなかったことは幸せなことでした。しかしながら、結局のところ高邁で、妥協のなかった、______精神的にはアナーキストの______この生涯を、そこにありえたかもしれぬ美しさに沿うように仮説的に掘り下げてみるならば、この当事者は、きっと、かつて彼であり、しかしもはやいかようにも彼ではない誰かに関することのように、誇り高い無関心さをもって名声の結果を受け入れたかもしれぬという推測が成り立つにちがいありません。ただし、外地から持ち帰った財産をさらに増やすべく、非人称の幽霊が、もっぱら著作権ばかりを要求してパリをうろつき回って、厚かましさぶりを発揮したりはしないとしての話ですが。



                  Stéphane Mallarmé  
                              1896年4月