世の中は仮装舞踏会

aroma22005-12-19

Nobody knows himself

The world is a masquerade.Face,dress and voice,all are false.All wish to appear what they are not,all deceive and do not even know themselves.

世の中は仮装舞踏会だ。顔、服装、声、すべてみせかけだけのもの。なにもかも本性は、深くかくされている。すべてがごまかしだ、そして連中にしても決してそのことを知りはしないのだ。


[ 43] The sleep of reason produces monsters

Imaglnation abandoned by reason produces impossible monsters: united with her,She is the mother of the arts and the source of their wonders.

La fantasia abondonada de la razon, produce monstruos imposibles: unida con ella, es madre de las artes y origen de sus marabillas.


分別に見放されてやっと、イマージュは想いもよらないようなモンスターに出会う。モンスターと合体してはじめて、イマージュは芸術の母体となり得るし、畏怖の源泉ともなってゆくのだ。

(....「理性を失った想像力はあやしきものどもをおびきよせる」の解釈は不可。理性などという言葉は曖昧だし、ゴヤはちっぽけで間違ってばかりいる世間の分別というものを哂っている。なるほど分別あってこそ世間というものが存在するのだろう。理性の根拠を疑わないような理性でこの地上の人間の景色を根底から捉えることなどとは笑止な業だ。問いはゴヤという人から発せられ、一切の理性的で表面的な外観は疑われる。ゴヤが欲しているのはもっと迅速に全体をつかむ眼だ。想像力というものが謎だ。......)



ベルグソン 創造的進化  第三楽章 カデンツァ  



 もっとも意識はみちみち厄介な荷物ばかりを捨てたわけではない。貴重な財もあきらめなければならなかった。意識は人間においてはなによりもまず知性である。それはさらに直観でもありえたし、またあるべきだったのではないか。直観と知性は意識作業のむかう相反する二方向をあらわす。直観は生命の方向そのままにあゆむのに、知性は逆の方向にすすみ、したがって物質の運動とごく自然に調子があう。完全で充実した人間性とはそうした両形式の意識活動を発達させきった人間性のことであろう。もちろんそれと私たちの人間性とのあいだには沢山の中間段階が考えられるわけで、これらは想像可能なあらゆる度合の知性や直観に応じている。そこに私ども人類の精神構造において偶然のはたした役割がある。進化が別であったらもっと高い知性の人間性か、もっと直観的な人間性に行きついたかもしれない。事実は、私どもを成員とする人類では直観はほぼ完全に知性の犠牲になっている。意識は物質を征服し、それからひるがえって自己支配にもどるために、自分の最上の力をつかいきらなければならなかったらしい。そのような征服がそうした特殊な環境のなかでなしとげられるためには、意識は物質のさまざまな習性に適応してありったけの注意をそれらに集中しなければならなかった。つまり、いっそう知性らしくなる方向に自己決定をしなければならなかった。それにもかかわらず直観は、ぼんやりとして、ことに非連続的ながら、りっぱにある。それは消えなんとする燈火であり、間遠にそれもほんの数瞬間あかるさを取りもどすにすぎぬ。しかし要するに命がけの関心のはたらいているところでは直観は勢いをもりかえす。私たちの人格、私たちの自由、私たちが全自然界で占める位置、私たちの起源、そしてまたたぶん私たちの運命など、それらのものの上に直観はかすかなゆらめく光を投げかける。そんな光にでも、知性によって置きざりにされた私たちの夜の闇をとおす力はある。
 そのように消えさりがちなほんの間遠に対象を照らしだす直観を、哲学はそのつど奪いとらなければならない。それらの直観をまず確保し、それから薄くのばして直観同士で触れあうようにしなければならぬ。この仕事がはかどるにつれて哲学はいよいよ深くさとる。直観は精神そのものだ、ある意味で生命そのものだ。知性は物質を生みだした過程にまねた過程がそこに切りだしたものにすぎないのだ。____精神的生命の統一が明るみにでる。その統一をあるがままに知るためには直観のなかに身をおいて、そこから知性に進むほかない。知性からはけっして直観に移れないであろう。
 そのようにして哲学は私たちを精神的な生にみちびきいれる。それと同時に、精神的な生と身体的生命との関係も示してくれる。精神主義の諸教理の大きな誤りは、精神的生命を他の一切から孤立させ地上からできるだけ高く宙に祭りあげることによってあらゆる攻撃からそれを守ってやった、と信じたところにある。そんなことをすれば精神的生活が蜃気楼の産物なみに受けとられるばかりだとは思わぬらしい。なるほど、精神主義には意識が人間の自由をみとめるさい、そのいい分に耳をかたむけるだけの理がある。しかしそこに知性がひかえていて、原因は結果を決定する、同は同の条件だ、一切はくりかえす、一切は所与だという。精神主義には人格が絶対事象であり、物質にたいして独立であることを信じるだけの理がある。しかしそこに科学がひかえていて、意識の生活と頭脳活動との連帯性をつきつける。精神主義が自然界で取っておきの地位を人間に割りあてて動物から人間への距離は無限だとするにも理がある。けれどもそこには生命の歴史がひかえていて、さまざまの種が徐々に変形しつつ発生するさまを目撃させて、人類をもとどおり動物界に組みいれるようにみえる。精神主義には人格の永生の確からしさをとなえる力づよい本能の声にたいして耳を塞がないだけの理もある。けれども、だから「霊魂」は存在していて独立な生をいとなみうるものだということになると、では霊魂はどこから来るのか、身体は両親の身体から借りた一箇の混合細胞からごく自然に私たちの目のあたりに生れるものなのに、霊魂はいつ、どのようにして、なぜこの身体にはいりこむのであるか、おおよそそうした質問はいつまでも答えられないであろう。直観の哲学は科学の否定になり、科学によって遅かれ早かれ一掃されることであろう。そうなりたくないなら、直観哲学は心をきめて身体の生命をそのありのままの場処に、精神的生命への途上に置いてながめることにしなければならない。しかしそうなれば直観哲学はもはやあれとかこれとかの限定された生物にはかかずらわなくなる。生命ははじめてそれを世界に投げこんだ原衝力までもふくめて、その総体が物質の下降運動にさからわれつつ上昇する波となって直観哲学に現われることであろう。あげ潮はほぼその全表面にわたりのぼった高さはさまざまながら、物質にはばまれてひとつ場処での渦巻にかえられてしまう。たったひとつ潮の自由に通りぬけた点がある。潮はそのさい邪魔物をひきずってゆくが、そのために足どりは重くなっても止められることはあるまい。この地点に人類はいる。そこが私どもに取っておきの位置なのである。ところで他方からいうと、その上昇する波はただちに意識であって、それはあらゆる意識なみに無数の潜勢力を相互透入したまま包んでいる。相互透入したそれらの潜勢力には一とか多とかいう、無生の物質用のカテゴリーは適合しない。ただ波が物質をはこびながらその隙間にはまりこむ場合、物質は波をはっきりとした個体に分けることができる。つまり波がすすんでいるので、それが人間の世代をつらぬきまた個体に小分けされるわけである。その小分けの線は流れのなかにぼんやりと描かれてはいたものの、物質がなかったら際立ちはしなかったろう。してみれば霊魂は不断に創造されるもので、しかもある意味ではやはり先在していたこととなる。霊魂とは生の大河が細流にわかれ、これらが人類の身体をながれて過ぎるものにほかならない。流れの運動はどうしても川ぞこの屈曲どおりになるにしても、それは川ぞこと区別される。意識はその生気づけている有機体からあれこれの変化をこうむるとしても、有機体とは区別される。意識の状態には可能的行動が素描のかたちでふくまれていて遂行のきっかけをいつも神経中枢のなかから受けとるし、同様に脳は意識状態における運動への分節構造をたえず裏打している。けれども意識と脳の相互依存はそこどまりで、意識の身の上はそんなことで脳物質の身の上に結びつけられはしない。要するに意識は本質的に自由であり、自由そのものである。けれども意識が物質を通りぬけようとすれば、物質のうえに乗るほかなく、それに適応するほかはない。その適応がいわゆる知性らしさなのである。ところが知性は活動的な意識の方をふりかえって、物質がいままで知性の枠におさまるさまを見なれてきたままにその自由な意識までも何となくおなじ枠にいれてしまう。そこで知性は自由をつねに必然の形でみとめることとなる。知性は自由な行為に欠くことのできない新奇さや創造の面をつねに無視するであろう。行動そのものをつねに模造品で置きかえて、旧を旧に同を同に組みかさねて人工的な近似物を作りだすことであろう。そのようなわけで知性をもとどおり直観のなかに吸収しようとつとめる哲学の目からみれば、難問の多くは消えるか弱まるかすることになる。もっともそのような哲理はたんに思弁を容易にするばかりでない。それはまた私たちの活動するカや生きる力をましてくれる。けだしそのような哲理をいだくとき、私たちはもはや自分を人類のなかで孤立したものとは感じないし、人類もまた自然を支配はしながらその孤児としてはあらわれなくなる。一片のあるかなきかの塵すらこの太陽系の全体と連帯していて、太陽系とともにひきずられて物質性そのものとしてのあの不可分な下降運動をおこなっている。一切の有機的存在もそれと同様で、もっとも賤しいものから最高等のものまで、生命のそもそもの起こりから私どもの今日にいたるあらゆる時あらゆる場処において、それらはある独一な、物質の運動と逆方向でそのものとしては不可分な衝カをひたすら私たちの目に焼きつける。一切の生物はたがいにかかわりあい、いずれもおなじ烈しい推力に押しまくられている。動物は植物によって立ち、人間は動物界に馬乗りになり、そして全人類は時間空間中を大軍となって私どもひとりびとりの前後左右を疾駆する。そのあっぱれな襲撃ぶりは一切の抵抗を排し幾多の障害にかち、たぶん死さえも躍りこえることができよう。